彼岸鉄道

−第1回−

ジァン・梅原

「次はさくらい、さくらい、桜の名所、桜井公園は次の駅が便利です」
車内放送があって、私の周囲の人々は一斉に降りる支度を始めた。
「さあ、降りるよ」
私は、車窓から外の風景に夢中になっている二人の子供‥‥‥ 小学2年の娘と幼稚園の息子に声をかけた。

私は、東京から大阪支店に転勤して、大阪府のT市に居を構えてから、すでに7回の春を迎え、ここで2人の子持ちになっていた。
T市は、大阪平野の北の端に位置し、大阪駅から宝塚に伸びる私鉄沿線にある住宅地なので、山が近く緑に恵まれ、私には気に入った環境だった。
久し振りの晴れた休日、妻は生け花の講習会に早々と出かけたので、私は子供たちを連れてこの私鉄に乗り、桜井公園に遊びに行くことにしたのだった。

「あれ、この駅に支線があったかな」
プラットホームに降りた私は、向かい側のホームに旧式の電車が一両停車しており、今降りた人々がぞろぞろとその電車に向かっているのに気が付いた。
ホームの案内板には、「花の名所、永遠の楽園、桃園にどうぞ‥‥。彼岸鉄道株式会社」と書かれてあり、満開の桜や桃の木の下で、楽しく遊んでいる人々の様子が、生き生きと描かれてあった。
「桜井公園には、前に何度か来たことがあるけど、桃園と言うのは初めてだな」
私はこどもたちを連れてその電車に乗り込んだ。

旧型電車の特徴である大きなモーターの音がして、ほどなく動き出した車内で、年寄りの車掌が直ぐにやってきた
「つぎはももぞの、ももぞの、終点です。お乗り越しの方はございませんか」
「なんだ一駅しかないのか」
私は乗り越しの手続きをするため、桜井駅までの切符を取り出した。
車掌は他の乗客には目もくれずに、真っ直ぐに私とこどもたちのところへやってきた。

「はい、往復で大人20円、子供10円です」
「えっ」
私はあまりに常識はずれな価格に驚いた。というのも現在、地下鉄の一駅区間でも140円はするからである。
「この電車では、あなたがたは往復の切符を買っていただかなければなりません。また、電車は今日の朝一往復、夕方一往復しか運転されておりませんので、必ず夕方の電車に乗ってください‥‥‥。 帰りの電車は桃園駅発4時です」
カーキ色の制服を着た、白い髪の老人がニコニコしながら、首からかけた大きな黒いバッグの中から切符を取り出し、パチンパチンとはさみを鳴らした。

「変な切符だな」
私は車掌からもらった、淡いピンク色をした名刺大のハード切符をながめた。
それにはくっきりと次の通り印刷されていた。
『桜井←→桃園、往復、昭和64年3月21日発行、当日限り有効、注意・出発地点にお戻りをご希望のお客様は、必ず往復切符をお求めになり、当日中に帰りの電車にお乗り下さい。−彼岸鉄道株式会社』

「パパ、きれい、きれいよ」
娘の声に窓の外を見ると、電車は一面に満開となった桃の林が続いた谷間を、あえぎながらゆっくりと走っていた。
「わぁーっ、きれいだね。桃がいっぱいあるから桃園というんだね」
桃の花の香りを運んでいる春の風は、顔に当たって心地よく、こどもたちは柔らかな髪を風になびかせて、甘い空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。

電車は坂を登り切ったようで、急にモーターの音が小さくなった。
ほどなく、下って行く電車の窓の外に谷間の盆地が広がり、一面の桃の花盛りの中に、農家と思われる古い民家が点在している、美しい田園風景があらわれた。
終点の桃園駅は、盆地の端にある谷川に面した小さな建物だった。
乗客に混じって電車を降り、改札口に出ると、先ほどの車掌がいて、私に念を押した。
「帰りの電車は4時です。必ず時間までに戻って下さいよ‥‥。乗り遅れると一生帰れなくなりますから」
「だいじょうぶ、必ず時間までには帰るから」
私は笑って答えながら『一生帰れなくなるなんてずいぶんきつい冗談をいう人でなあ』と思った。

駅前にはたくさんの人々が出迎えに来ていた。
降りた人々はおおむね年寄りが多かったが、それぞれ昔から知っている人が多いらしく、出迎えの人々と再会を喜び、中には抱き合って泣いている人もいた。

私の知っている人はいなかったが、まるで親しい人のように暖かく迎え入れられ、皆と一諸にぞろぞろと歩いて行った。
小さな駅前広場の直ぐ向こうには、さつき車窓から見た美しい風景が広がり、満開の桃の花が明るく見えたが、その前に深い谷川があり、対岸に行くには、駅を背にして二百メートルほど左に歩いて、谷川の細くなったところに架けてある橋をわたらなければならなかった。
私たちは谷を迂回している道と橋を渡って、桃の花が咲き乱れている村の中に入っていった。
村は何かのお祭りらしく、笛や太鼓の音が聞こえ、広場には屋台が立ちならび、晴れ着姿の人々が沢山歩いていた。
「あれ、ヒデちゃんじゃなかと?」
不意に後ろから声をかけられ、私は振り向いた。
(以下、 第2回 へ続く)
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